ザ・インタビュー 里中満智子先生 -前編-

Fields × JAPACON “Contents & Human Future Lab.では、漫画家の先生のヒーロー像を毎月おひとりずつインタビューしていく予定です。このインタビューでは、作家の皆さんの成り立ちや作品に対する想いを、ヒーロー、ヒロインという言葉をキーワードにしてお伺いしていきます。

お二人目は、里中満智子先生です。
里中先生は、高校在学中に漫画家デビューされました。先生のデビュー当時、少女漫画の女流作家はまだ少なかったそうで、女流漫画家のパイオニアのお一人と言えるでしょう。
現在は、日本漫画家協会常務理事、大阪芸術大学キャラクター造形学科教授など多岐にわたり活躍されています。
デビュー以来、作品を通じて、女性たちに力強いメッセージを送り続けている里中先生。先生の創作にかける思いや、ヒーロー、ヒロイン観に迫ります。

■ 漫画家になったきっかけ

瀬尾:
海外でのお仕事からご帰国したばかりと伺っています。ご多忙の折、インタビューをお引き受けいただきありがとうございます。本日は、先生の創作への思いや、ヒーロー、ヒロイン観をお伺いしたいと思います。よろしくお願いします。

小室:
早速ですが、先生は若くして漫画家デビューを果たされたと伺っています。最初に、漫画家となったきっかけを教えていただけますか。

里中先生:
私は、第二次世界大戦後間もなく生まれた団塊の世代で、戦後民主主義の中、男女が平等であるとの教育を受けて育ちました。また、自分より少し年上の男性は非常に少なく、小学生のころから経済的に自立できる仕事をしたいと考えていました。と言っても、まだ女性が働く場所は少なく、高学年になって、漠然と漫画家になりたいと考え始めました。
絵を描くことは得意でしたが、どちらかというとストーリーを考えることのほうが好きだったように記憶しています。

瀬尾:
何故、小説家ではなく、漫画家を目指されたのでしょうか?

里中先生:
自分の考えたストーリーを登場人物のセリフを通じて展開させたかったんです。中学生になってからは、漫画家を目指して必死に投稿をするようになりましたが、漫画の描き方は基本的には独学でした。ちょうどそのころ、手塚先生の漫画入門書などが出版され、それをバイブルとしていました。
作品を投稿していたころは、子供なりに戦略があって、大手出版社よりも中小の出版社の方が自分の漫画を採用してもらうチャンスが多いなどと不遜なことを考えたりしました。有り難いことに、どの出版社さんからもアドバイスをいただくことができ、少しずつ良い作品を描くことの大切さを学び、16歳のとき「ピアの肖像」で第1回講談社新人漫画賞を受賞し、デビューしました。1964年の東京オリンピックの年でした。

■子供時代について
小室:
若くしてしっかりとしたお考えをお持ちだったのですね。どのような少女だったのでしょうか?

里中先生:
小さいころからおませな少女だったように思いますね。体も大きかったので、理論攻めで同級生の男友達を言い負かせたりしていました。(笑)
読書や映画鑑賞も大好きで、学校の図書館の小説、ノンフィクションはほぼ読みつくしました。ノンフィクションを読んだことは、のちの創作活動にプラスになったと思っています。映画は、当時、ヌーベルバーグ(フランスにおける映画の運動)と、もてはやされた時代で、映像の技術発明から数十年で映画が文化として認められたとわくわくしました。
もちろん、漫画も好きでしたよ。私は大阪で生まれ育ちましたが、当時、大阪の教育委員会は漫画を悪書として排斥運動をしていました。私は、時間がかかっても漫画を映画のように文化と認められるジャンルに育てたいと息巻いていましたね。
また、漫画は学校で学べないことを私に教えてくれました。行動規範を学んだのは手塚先生の『鉄腕アトム』です。

瀬尾:
どういうことでしょうか?

里中先生:
『鉄腕アトム』の中で、手塚先生は、悪役には悪役なりの大義を描かれていました。意地悪そうに見えても、それなりの理由がありました。
「こんな時、アトムだったらどうするかな?」「この人が意地悪になってしまう理由があるのかな?」など、自分なりに深く理解でき、考えるようになりました。
しかし、少女漫画はあまり好きになれませんでした。

瀬尾:
どうしてでしょうか?

里中先生:
少女漫画はごく一部を除いて類型化されていた作品が多かったからです。継母や金持ちの友人にいじめられて泣く主人公を王子様が助けに来てくれるといった少女漫画が多かったんです。継母や金持ちがみんないじわるというのも違和感がありましたね。

瀬尾:
そういえば、当時女流漫画家は少なかったのではないですか?

里中先生:
今程ではないですがいらっしゃいました。それぞれ魅力的な作品をお描きでしたが圧倒的に男性漫画家の方が多かったです。とにかく漫画は好きで、好きな漫画を集めるために、当時お小遣いをためて、貸本屋さんから古い漫画を安く譲ってもらっていました。漫画のコレクションは、後に、テストの問題を1問間違える度に1冊捨てることを母に約束させられ、捨てても良い順を決めていましたね。(笑)母は良くも悪くもこの約束を守り、家庭訪問の折、学校の先生に漫画を捨てさせるようにと勧められても娘との約束があると固辞しました。今では、あの漫画を捨てなかったら価値があったのにと母と後悔しています。
こんなふうに集めた漫画を読みながら、手塚先生の博学さには感動して、漫画家になるためには、百科事典の内容をすべて理解しなければならないと思い込んだりしていました。

中学生の時、職業希望欄に「漫画家」と記入はしましたが、自信はなかったんです。漫画家になるためには、やるべきことがたくさんある。漫画家になるために適した学校を選ぼうと思いました。
以前にIQテストで大阪トップのスコアを出したことがあったので、私が家の近くの公立高校を選んだ時は親にも学校の先生にも反対されました。小学校の先生に偶然会った時に「里中、目を覚ませ!」と声をかけられたこともありました。
でも、私の決心は変わらなかったんです。学校を選んだ条件は2つでした。男女共学と演劇部があること。幼いころは、男子を言い負かしていた私ですが、このころには男女の立場の違いを超えて話すことが楽しくなっていたのです。演劇部入部はシナリオの勉強が目的でしたが入部してみると男子が少なくて結局男役を演じる事になりました。演劇部での思い出は、私がおじいさん役を演じた時、先生から褒められたことです。とてもうれしかったのを今も覚えています。

>>後編へ続く

■インタビュアー紹介

瀬尾太一
コンテンンツ・ポータルサイト運営協議会(JAPACON)統括主査。写真家。日本写真著作権協会常務理事、日本複製権センター副理事長などを務める。クリエイターをはじめ、幅広いジャンルの方々と交流を持つ。

小室つぐみ
フィールズ株式会社研究開発室(フィールズ総研)勤務。

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